曇りがちな空を晴れ間に
その日自分は,
自社の関連施設に来ていた.
製品開発を担当している
グレース(仮名:40代女性)グループ長
の仕事をするために,
社用車でわざわざやって来た.
「グレースさんはいますか?」
自分は居室にいた
彼女の部下に訊ねた.
「あれ?さっきまでいたんですけど.
実験施設の方かもしれません.
ちょっと見てきますね」
居室にはほとんど人がいなかった.
この時間だと研究でも
しているんだろう.
5分後,探しに行った部下が
戻って来た.
「すいません,見当たりませんでした」
「カール(仮名:60代男性)さんも
いないみたいだけど,どうしたんだろう」
カールとは,グレースの元上司だったが,
今は再雇用となり,組織上,
彼女の部下となっていた.
「もしかしたら,外かもしれません」
「ああそうか,行ってみるわ」
自分は非常口のドアを開けて
外に出た.目線の先には
白衣を着た男女がしゃがんでいた.
カールはタバコを吸い,
グレースは重そうな面持ちで
目線を地面に向け話していた.
「こんにちは,探しましたよ」
自分はカールさんに会釈した後,
グレースに呼びかけた.
「あっ,ごめんなさい」
「タバコ吸い始めたの?」
「違いますよ!ただカールさんと
いろいろ話していて...」
「こんなところで,2人でしゃがんで?
コンビニの前だったら,ヤンキーやん」
彼女は少し笑った.
自分たちは居室に向かって
歩き出したが,カールは戻る気配もなく,
その場でタバコを吸い続けた.
グレースは自分が5年前に
転職してきた時,すぐに共同業務を
した1人だった.それ以来,
年に数回は顔を合わせている.
「何話してたの?暗そうな顔で」
「いいんですよ,私なんか」
「今日は沈んでいる時か...」
「浮いてるときなんか,無いです」
グレースはグループ長に
なるぐらいなので,
優秀な女性であることは間違いない.
部下の信頼も厚く,
発表などを聞いていると
たくましさを感じるが,
感情の上下が少しあり,
どちらかと言うと「下」の時の方が多い.
部下の前では見せないが,
カールのような元上司と
かつて自分のグループにいた
長老(6月退職)の前では
思いっきり見せていた.
自分は長老と組んで動いていたので,
その姿を見ることが多く,
長老と共に,元気を取り戻させるために
多少イジることもあった.
「落ち込みは,原因があるやつ?
あるいは漠然としたもの?」
「いろいろです」
「最近は休めてるの?」
「有休は余りまくってます」
施設の廊下は休日のように静かで
弾まない会話が,白い壁に
吸収されていくようだった.
「そう言えば,うちの部門の
執行役員,変わったんだけど」
「知ってますよ,
まさかその部門に行くとは
思いませんでした」
「姫(執行役員の娘)いたよね.
この施設に」
「そうですね.ちょっと前までいました」
「変わった子だったような...」
「変わった子...でしたね」
居室に戻ると,自分は
厚さ5㎝程度のチューブファイルを
渡されたが,それほど量は無かった.
「これだけ?なの」
「ええ,今回は米国対応なので
日本ほど多くないんです.
ああ,それと,この間送った
英文ですが,間違いだらけで
すいませんでした」
事前に報告文書の案だけは
電子で渡されていたが,
突っ込みどころ満載の英語だった.
「明らかにやる気のない文章でしたね」
「見てもらえると思っていたので,
パッと案を書いて送りました」
こんな時だけ笑顔をみせるんだよな.
「パッと? 雑っと,でしょ.
とにかくこのファイル,
少しお預かりします.
夕方にはお返しします」
「よろしくお願いいたします.
19時まではいると思いますので」
「いやいや16時には帰ります」
自分はファイルを持って
図書室の方に向かった.
斯く言う自分もテンションは
下がりっぱなしだった.
人と話すので無理に上げていた.
頭の中では芥川の文章が
流れている.
「もし自ら甘んじて永久の眠りに
入ることができれば,自身のために
幸福ではないとしても,
平和であるには違いない.
しかし僕がいつ敢然と
自ら人生を終えてしまうかは
わからない.
ただ自然は,こんな自分にも
いつもより一層美しい.
けれども自然が美しいのは
僕の末期の目に映るからかもしれない.
僕は他人よりも 見、 愛し、そして理解 し た.
それだけは苦しみを重ねた僕にとって,
多少満足がいくことだった」
芥川の死ぬ前は
こんな感じだったんだな.
ただ自分には「歯車」より
「破壊」の方が合っている気がする.
何にもないけど,
もう少し頑張ってみるか.